小池 修 [Sax, Flute, Arrangement & Composed]
1959年7月8日広島生まれ、蟹座、O型


幼い時から

父親に連れられグレンミラー楽団や、サムテイラー、ソニーロリンズなどなどコンサート三昧。サックスに興味を持つ。どうしてもサックスが吹きたくて10才の時、ボーイスカウト広島第22団音楽隊に入団。この時の指導者、旧日本帝国海軍呉軍楽隊指揮下井先生に徹底的にしごかれる!(まだ10才なのに鉄拳に泣く)しかしながらこの時「やればできる!」を教わった。勿論、ボーイスカウトのモットーでもある「そなえよつねに」は今も忘れてはいません。

11才の時母を亡くし少々ぐれる。
で、そのまま中学校へ入学。荒れた中学校生活を送るがサックスだけはいつもそばにありました。学校もろくに行かず繁華街をうろうろしている頃、ベトナム戦争の為岩国米軍基地に赴任中の米兵達が、基地ナンバーを付けたままのキャデラックのオープンカーに乗ってカーラジオから流れて来る岩国米軍放送のジャズを聴きながら広島市内を走り回る光景を見て、もう「アメリカ」と「ジャズ」の虜に!そして高校入試。その頃の音楽の発信地でもある東京の高校入試を受ける。そしていざ合格発表!忘れもしません、記録的な大雪の東京京王プラザの一室で親父に告白。「実は一校も入試を受けてないんだ!全部白紙で出した!」。少々驚いた感じの親父であったが、まったく高校など行く気の無い事位、もう察していたようだ。「あっ、そうか」さすが我が親父!早速その日、知人の紹介で音楽のできる芸能プロダクションを紹介してもらい契約の後、改めて上京!となるはずが、良く調べると演芸芸人専門の事務所だったのです。ここでジャズは無理と判断。結局広島のキャバレーへ歳をごまかし就職。 しかしこのキャバレーこそ、今の自分を確立させてくれた場所になったのです。年中無休365日、毎日毎日違うショーが入り、勿論超ビッグスターの方も三流の方もリハーサルもなく本番を迎えると言うとてつもない世界に入ったのです。打ち合わせはマネージャーが出すテンポのみ。売れていない人は勿論本人が打ち合わせに。当時15,6歳の若僧の僕にも頭を下げ打ち合わせを。厳しさを学ぶ。今思えば実に緊張感のある毎日でした。ここでは他に「礼儀」と言う事を徹底的に仕込まれました。勿論広島と言う土地柄、キャバレー内での傷害事件やドンパチ(撃ち合い)も何回か経験しました。(恐かった)
ダニエル・ビダルのステージで,16才、広島


そして運命の出会いその1
我が師である松本英彦と広島のライブハウスで出会う。何もわからずジャムセッション。その帰り際「今、東京で学校を開いているから是非上京しておいで!」勿論「ハイ!」と即答。これから東京の生活が始まりです。17才の春の事でした。しかし希望に燃えていた17才の男の子には試練の土地でした。まっ今思えばそんなにすぐチャンスが来る訳はないですよね(甘かった!)。とてもここでお話など出来ない様な場末のキャバレーから銀座の高級クラブまで様々なお店で演奏しました。そしてやっとチャンス到来!テレビ番組のレギュラーを持つバンドに参加。ここからが怒涛の忙しさ。年間200日の旅なんてざらと言う日々を送る。洗濯をしに家に帰るだけでした。勿論初心忘れずこの間も新宿ピットイン(昔の)や新宿タローなどライブ活動は続けていました。19歳の頃。

そして運命の出会いその2
トランぺッタ−数原晋氏と出会う。言わずと知れたトップスタジオミュージシャン。この人のお陰で今まで180°の世界しかしらなかったが全く違う残りの 180°を知る事になる。そうスタジオの仕事。人脈、スピード、クリエイティブ、プロフェッショナル、音に対する厳しさ、集中力、すべてが初めての事で新鮮な出合いでした。結局数原さんの元でレコーディングの仕事をする事が中心になる。23才の頃である。結果的に3000枚近いアルバムに参加出来ました。勿論今もスタジオミュージシャンは継続しています。この間色々な方のツアーも数えきれない位参加しました。
17才で東京へ数原晋さんとSTで
そして運命の出会いその3
ジャズボーカリスト笠井紀美子さん。僕の胸の中で燻っていたジャズの火を再び点火してくれた人です。ひょんな事から笠井さんのミュージカルディレクターをする事になり、アレンジなどまかされていました。正直言ってこの時に初めて「ジャズで飯が食える!」と思いました。そしてどんどん人脈も広がり、ある日ゲストに日野皓正さんが参加され、これが縁で日野さんのバンドに2年間在籍する事になりました。この2年間も勉強になったなぁ〜。そしてこれをきっかけに色んなジャズミュージシャンの方々と出会う事が出来ました。

日野皓正グループで韓国へ

そして運命の出会いその4
aosisレコード、プロデューサー新川博氏。新川さんとはずいぶん前からレコーディングの仕事や共通の仲間であるHi-Fi-Set、山本潤子さんの仕事などで御一緒させて頂いていたのですが、ある日突然「こんどレコード会社を立ち上げるんだけど、そこでチャーリーパーカーwith stringsのテナー版作らない?」と声をかけられ「ハァ!」とビックリ!僕がジャズをやっているのは御存知だったはずですが、どの位の実力でどんなスタイルでなんて知らなかったはず。しかしこんなチャンスはそうは無いし、その新川さんの「勇気」と「無鉄砲」さに応えたくアルバムを作る事になりました。そして新川さんのお陰で「作って良かった」と思えるアルバムになりました。これを縁に僕はaosisレコードに参加する事になり、今ではEQと言うすばらしい仲間達とバンドを結成する事が出来ました。今ではとても大事な「兄貴」の様な存在です。ざっと、現在までの足跡、と言ったところですが、この間も様々な人と出会う事が出来、その人たちに支えられながら現在があると、本当に感謝しております。何かプロフィールと言うより、小池修小物語になってしまいました。
新川博さんとL.A.のスタジオで